得意でなくても、いいんじゃないの?

二胡コラム

楽器は、好きでなければやらないものである。

強制的にやらされたという場合はもちろん除くけれど、それ以外は自分自身の選択で、好きな楽器を奏でているはずである。楽器=好き。楽器とはしあわせなものだ。

「好きこそものの上手なれ」

よく言われることだが、では、好きであれば得意なのか? というと、そういうわけでもない。この諺は、好きだからこそ上達の糸口を見つけられる、と説いているのであって、ただ好きなだけではそれ止まりなのである。更に心にゆがみがあると「下手の横好き」となってしまう。

「そうそう、だったら苦労しないよね。」頷く人も多いであろう。であるならば「自分が得意なことを、好きになればいい」、こう言う人もいるかもしれない。が、そうはいかない。「好き」は、後付けでやって来ないからだ。

そもそも「好き」はコントロール不能なものだ。理由もない。どこからやってくるのか分からないし、無限の力が湧き出る魔法の源ともいえる。この場所は、自分が安堵できる、かけがえのない心の安全地帯である。
言うまでもなく、上達することより「好き」の方が究極に大切であり、「好き」こそ守らなければならない。

長くなっているが、とどのつまり「好きなのに得意でないこと」は、どうすればいいのだろう。努力しても限界を感じた時はどうしたらいいのであろう?「上達」という概念は、楽器習得において、どれだけ大切なのであろうか。

「得意でなくても、いいんじゃないの?」


私の答えである。
天が、自然が、耳を澄ませているのは、上手下手ではないのだから。今、あなたの顔も、心も、泉のように満ちていて、その様子に皆が癒されるのだから。
これを幸福というのだろう。

誰かと比べることに視点を置くと、上達が必須になる。
自分に視点を置くと、音楽が自分自身になる。
他人が判断するところの「上達」なんて、どうでもよいのではないだろうか。そもそも感動は、技術表現を越えたところにある。

その違いを最初に分かった上で、楽器習得に取り組むと、気持ちがぐっと楽になると私は思う。あなたと楽器が共にあることで、心安らかで仕方ないという状態であるのなら、断然、そのほうが健康にいいし、身近なことへの影響も著しく良くなるはずだ。毎日が安らぎ、未来に光がさしてくるであろう。

あなたの「好き」があふれているか、楽器と対話したらいい。好きな音楽を、楽器に歌ってもらったらいい。自ずと、ひとつひとつ、無駄な力が抜けていき、簡単なひとつの音から、心を乗せるように弦が響きはじめるであろう。

その時、なにかを思うであろう。かけがえのないものに近いなにかを。泣きたくなるような、抱きしめたくなるような、生きているという何かを奏でたくなるはずだ。

努力は夢中に勝てないのだ。


さて、その上で。楽器習得のような芸の領域は、自身の崇高な世界との対峙であると思うのだけれども、更なる高みを望むなら、「努力は才能」、であろう。努力できる人は、才能すら呼び込む。私はそう思う。

どちらも、ヒトの美しい姿である。

この手から生まれる創造力に、無限の感謝を。