響きと心

Music of the Heart

楽器の習い事を始めてから、様々な楽器の、様々な先生に師事しました。

小さい頃通っていた音楽教室のピアノの先生は、たいてい独身で、たいてい美人で、毎回赤い口紅をつけていて、申し訳ないのだけれど皆さん一律に怖くて、結婚すると次の先生にかわっていきました。

ピアノが私の音楽の習い事の入り口でしたが、私はご存知のように無類の楽器好きですので、その後も様々な楽器の先生に師事しました。そして、そのたびに思いました。音楽は、響きは、そのこだわりは、伝えたいことは、人によって様々であると。

メソッド通りに進むけれど技術はほとんど見ない指導者もいれば、徹底的に音にこだわって先に進ませない方もいる。無関係なおしゃべりが必要以上に長い方もいましたし、反対に、お料理番組のように分刻みでレッスンする方もいました。ビジネスとして手広くレッスンをする方、趣味でゆるやかに教える方、名奏者ですが人見知りで話すことすら苦手な方もいましたし、自分ばかり弾いている方もいました。芸大卒であっても謙虚極まりない方や、音楽以外の事も丸ごとで包んで下さった方、真面目でとにかく一生懸命な方など、いろいろ。

そして、「美しい音」に対する意識も、人によって全く異なりました。驚くほどに、全く!

「音への意識なんて似たようなものじゃないの?」と思われるかもしれませんが、いえいえ。天と地、以上に違いを感じました。大差があるのです。

一音。

どういう意識でここに向かっているのか、目指している「美しい音」とはどういう世界なのか。

人生をその一音にかけているのか。

この一瞬に生命を込めているのか。

 

美しい響き。

様々な先生の顔が思い出されます。

光り輝くように崇高で、透明で、純粋な響きの世界。

研磨して、練って、削ぎ落して。

何度叩きのめされても、永遠に究極を目指す、錬金術師のような弾き手の魂。

美しい響きとは、かくも人を虜にするものか、と思わされます。

しかし、

不思議なことに、その世界を垣間見させていただいたからこそ、同時に、それ以上の存在がある事にも気づかされます。

月並みですが、心、です。

技術が伴わなくても、響かせ方がいまいちであっても、奏者の心そのもので響いている演奏は、名演になるのです。聴き手が共振して、身体の奥から涙がでてくるのです。感動するのです。

こういう経験は、おそらく、どなたにもあるのではと思います。楽器でなくても、あの日の誰かの歌声に感動した、ということはあるでしょう。

心は、錬金された美しい響きをも、軽々と超えていくのです。

心とは、物理的に、「音」よりも遥かに強く、この世界に響くものなのでしょう。私たちも、動物も、植物も、その響きの海の中で、そもそもが生きているのかもしれません。

響きと向き合っていると、こういうことを否応なしに考えさせられます。上辺ではなく、深層の心の純粋で奏でられた響きの感動は、センチメンタルな感情の仕業だけで解決できることではないと、私は思うのです。

反対に、狙った演奏は、まったくもって聞き手を不快にさせます。もはや音楽が自己顕示の目的になっているのですから、仕方のないことでありましょう。(思惑があるものを人は本能で拒絶しますよね。これは音浴でも意識している注意点です。)

じゃあ、狙わないで「心」で演奏するってどうするの?これこそ難しいですね。だから錬金術師を目指していくのでしょう。

素直に生きる。

このことの奥深さをあらためて思います。禅の教えに通じるものがあるかもしれませんが。もしかしたら、手掛かりはすぐそばにあるかもしれませんね。

草も、木も、月も、地球も、こんなにも優しさを感じるのだから。

     

翠月淳
JUN MIZUKI